一昨日亡くなられた中曽根元総理もとい大勲位wには、忘れられない思い出がある。
中曽根元総理が自民党幹事長の要職にあった1976年当時、私は小学四年生であった。尚且つ幹事長はロッキード事件の疑惑の中にいた。父は私にロッキード疑惑を報じるテレビニュースを見るたびに「中曽根さんもいるいろあるじゃろうの~。綺麗ごとばっかりじゃ政治はやれんのよ。お前も大人になったらわかるわい」と言っていた。結局、逮捕された田中角栄氏とは違って中曽根氏は事件の容疑者とはなることなく(疑惑は灰色のままということ)後年に総理になられた。
さて、そんな中曽根氏らのニュースがかまびすしい師走のある日、私は母校である朝倉村立下朝小学校(現今治市立朝倉小学校)のグラウンドで遊んでいた。その時隣の今治南農協下朝倉支所(現JA越智今治下朝倉支店)の広場に「伊平でございます。越智伊平がやってまいりましたっ!」のスピーカーの大音響とともに選挙カーがやってきた。思わず私は自転車に跨り、JAの広場に移動した。
師走の総選挙・・・後の建設大臣、運輸大臣また農林大臣となる地元の故越智伊平氏の演説が始まった。たぶん70~80人ぐらいの大人が集まっていたと思う。で・・・未成年は自転車に跨る私一人が人垣の最後方にいるだけ。まあ小学生には意味がよく分からない伊平氏の演説のあと、マイクを握ったのは、応援の中曽根幹事長そのひとであった。
「うわっ・・・テレビでよう見るあの中曽根幹事長じゃ・・・・」今治の隣の鄙びた村の少年には、連日テレビを賑わす氏が目の前に現れ、少々興奮気味であった。もちろん幹事長の応援演説の内容も、伊平氏と同じく理解できなかった。で、幹事長の応援演説が終わると伊平氏は直ぐさま選挙カーに乗り、次の演説会場に移動していった・・・・・・。
聴衆の大人も蜘蛛の子を散らすように居なくなったなったのだが、なぜか幹事長の車はそのままで発進しない。広場には幹事長とお付きの数人と(護衛のSP、運転手らだったのだろうと思う)と私だけが取り残された。「どしたんやろか?」私は幹事長の車が動きだすまでそのままここに居ようと、じっと車外に立つ幹事長の方を見つめていたのだが、私の視線に気づいた幹事長がこちらに向かって歩いてこられた。
幹事長「聴いていてくれたのか!」
私 「はい」
幹事長 「君 何年生?」
私 「四年生です」
幹事長 「そうか、勉強・・頑張れよ!」
そうおっしゃられた後、さっと踵を返し車の方に戻られる後ろ姿の幹事長に元気よく大声で・・・
「はいっ、中曽根幹事長!」
※父から「例えば学校の先生に先生さんとか先生さまとかという言い方は無いんぞ」と教えられていたので幹事長さんと呼ぶことは無かった。
まさか四年生の子供に後ろからそう返事されるとは思わなかったのだろう。驚いたような顔つきでこちらを振り返り、私の顔をジッと見つめ、なんと破顔一笑!
その後自転車に跨る私に対し幹事長は今度は口許を引き締め、直立不動の姿勢で、余り肘をはらない海軍式の敬礼をしたあと去ってゆかれた。下の参考写真はうつむき加減だが、幹事長のは「ピシッ」として、それはもう長身と相まって様になってましたよ。
東宝 海底軍艦1963年より引用掲載
私にとっての軍人の敬礼は、小学一年生(1974年3月)の時にルバング島から生還された下の写真の小野田元陸軍少尉の敬礼や、我が家の近所の年寄り連中が祭などで酔っ払って肘をはる陸軍式敬礼しか見たことがなかったので、幹事長のはえらく新鮮だった(出征した地区の年寄りはすべて陸軍のみで、海軍は一人もいなかったと父から聞いた)
毎日グラフ 1974年 4/5号より引用
その夜父に「中曽根幹事長の敬礼は、なんか小野田さんのと違うとって・・・・」と言うと「ああ、中曽根さんは海軍じゃ、船乗りは狭い船の廊下で肘をはったら、敬礼するもん同志が肘があたって通りにくいやろ。ほんであんまり肘ははらんのじゃ・・・」と言われて納得。
時は流れ・・・結局その後総理となられた中曽根氏とは二度とお目にかかる機会はなかった。
そのかわりといってはなんだが帰国後の小野田元少尉にはお目にかかったが(というよりたまたま千葉の柏でお見かけしたというだけ)wwwww
しかし、今もって不思議なのは、中曽根元総理はなぜあんなふうに私に敬礼をしたのかということ・・・・・元総理が海軍式の敬礼をよくしていたとかというのは、その後今に至るまでマスコミ報道からも寡聞にして聞かない。下の写真のように、総理となられてからの海上自衛隊の観艦式であっても、胸に手を当てているだけで、敬礼はされていない。やはりいかに海軍出身の筋金入りのタカ派と呼ばれる不沈空母宰相であっても、海軍式の敬礼は世論が沸騰しかねなく遠慮されていたのだ。
時事通信社 11月29日記事より引用
元総理にとって海軍とはどんなものだったのだろう・・・wikipediaを読んでみる・・・・
以下wikipediaより引用
中曽根が乗船している前後左右の4隻は轟沈、さらに接近してきた敵駆逐艦から副砲や機関銃で攻撃され、輸送船も炎上する[12][13]。中曽根が情況を確認すると、船倉は阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、多数の重傷者を出していた[12]。班長も脚部ほぼ切断の重傷であり、中曽根は軍医長に託したものの、班長は部下の治療を優先させているうちに戦死した[13]。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの海岸で、荼毘(火葬)に付した[13]。中曽根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる[注釈 2]。
「 | 友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜 夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ | 」 |
敬礼の列の 足に来ぬ・・か・・・
夏の海辺に死んだ友を荼毘に付すために鉄板を運び、遺体を乗せ油をかけて焼く。敬礼する足許には波が寄せては引き・・・・・といったところだろうか。(地面に直において焼くより熱伝導率がいいのでそうしたのだろう。米軍がいまそこにいる状況の戦地で時間をかけて荼毘に付す余裕はないだろう。バリクパパンのすぐ近くまで私は21歳の時に行ったことがあるが、戦前より油田地帯である)
ふ~っ・・・
あの振り向かれた時のびっくりしたような両眼(まなこ)が今も脳裏から離れない。私の言葉になにか海軍での思い出が蘇ったのだろうか・・・。
もし機会があればお尋ねしたかったが・・・・残念、真実は墓場まで持っていかれたw。
令和元年…はるか前に小野田元少尉は鬼籍へ、私の父も今夏、そして元総理も今また。
上のリンクで読める元総理のガチガチなまでの右思想には共鳴しない私ではあるが、ここは素直に少年の思い出のお返しで、
従一位、大勲位菊花賞頸飾の元総理ではなく、従六位の若き頃の「中曽根元海軍主計少佐に敬礼!」
昭和は遠くになりにけり・・・・か。
現在日本ブログ村エクステリア、ガーデン部門で2位に陥落であります。ということで・・・下のエクステリアの囲みをポチ。「押してやるかっ!」なんていわずにポチ。ありがとうございました。